じいさんの似顔絵  なんとか髪の毛も増やしてもらいました。

それぞれさまざま、手持ちの力で

「人間」とか「こども」とか、大雑把にひとくくりでいっても、実際は人もさまざま、こどももさまざまです。
 人間も自然のひとつ、そして自然はみな多様なものですから、なにかの物差しで測れば、みんなそれぞれです。
 たとえば身長という物差しで測れば、                                                                                 同じ年齢でも、すごく背の高い子もいれば、すごく背の低い子もいて、まんなかくらいの子がいちばん多い。
 それが自然です。

 親になると、「よその子とちがう」ということを気にしがちですが、実際はちがわないほうがおかしい。
 それにしても、「よその子とちがう」というとき、この「ちがう」ってどういうことでしょうか。
  こどもはみな別々の人間ですから、どの子をとっても「それぞれにちがう」のがあたりまえです。

ワンワンちゃんを買うための準備を   
A4ノートに一冊分くらいいろいろと何から何まで丁寧に お友達と相談しながら 着々と準備を進めています。イラスト付きで超すごい!! 絵本にでもできそう

 そのうえで、わざわざ「よその子とちがう」というのですから、
ここで「ちがう」というのは、だれもがみんな「それぞれにちがう」というのとは別の話のようです。

「みんな”が”ちがう」と「みんな”と”ちがう」
 うちの子は「よその子とちがう」というとき、じつは「よその子」というのをひとまとめにして、
「よその子はみんな同じ」、だけどそのみんなとくらべて「うちの子だけはちがう」ということですね。
 平たくいいかえれば「みんな○○なんだけど、うちの子は××だ」ということ。

 たとえば「よその子はみんな歩いているのに、うちの子はまだ歩けない」とか、
「よその子はみんなしゃべっているのに、うちの子はまだしゃべれない」とか。
 あるいは「よその子はみんないっしょになって遊べているのに、
   うちの子はぽつんと一人で遊んでいる」とか……。

 先の「ちがう」は「みんな”が”ちがう」ということだとすれば、
    ここでのそれは「みんな”と”ちがう」ということです。
  問題は「みんな”と”ちがう」ときですが、
ここでも「みんな”が”ちがう」というところを忘れないでおくことが大事です。
 
  発達心理学では、とかく「みんな」のふつうを標準の物差しにして、
   それと同じか、ちがうかということでこどもを見がちです。
 

子どもたちのエネルギー、力ってすごい!!
 今持っている力で精一杯!!そしてそしてどんどんどんどんうまくなっていくし、内容も濃くなっていきます。友達の力も借りてますます。こころもどんどん豊かになっていきます。   ほんとホントよく考えているし、うんと優しい。すごいうれしくなります。未来は超明るい!!

  だけど、それはせいぜい育ち具合を見るための目安程度のことで、
    よその子とくらべてどうなるわけではありません。

 そうはいっても、                            よその子にくらべて育ちが遅れていれば、気になるのも自然なことです。
  そんなとき安心して相談できる人がいれば助かります。
 ただ、医者や発達相談員のような専門家のなかには、親以上に遅れや障害を問題にして、
そこだけを取り出して見る人たちがいて、かえってしんどくさせられてしまうことがあります。

 専門家はいろいろなケースを見てきてはいるのでしょうが,
    問題を生活のなかで考えるという視点に欠ける人たちが少なくありません。
 発達というと、知能テストや発達テストで測られるような力が一つひとつ身についていくことだと考えて、                                     よその子よりちょっと遅れていると、
 とにかく年齢相応の力を身につけることに必死になったりしがちです。
 しかし、それでは親も子もきゅうくつです。
      大事なのは、身につけたその力で、
 それぞれにどういう生活をくり広げていくかということであるはずですが、
   案外、このことが忘れられています。

 大切なのは力の伸びそのものではない

 身体をたずさえて生きている生き物は、みな、その身体にそなわった手持ちの力で生きています。
 これはあたりまえのことです。

   もちろん、今日はまだ身についていない力が、明日になれば身についているかもしれません。
      しかし、明日身につくかもしれない力で今日を生きるわけにはいきません。

        多い少ないにかかわらず、だれもがいまの手持ちの力を使って、
               それぞれの生活世界をつくりあげていくしかないのです。

私たちにとって意味があるのは、
          その生活世界のありようであって、力の伸びそのものではありません。
 
  あえていえば、人は発達のために生きているのではありません。 
  どんなにささやかであれ、手持ちの力を使って生き、それぞれの生活世界を広げていく。
         新しい力が生まれてくるとすれば、それはその結果でしかありません。
 
   たとえば、ことばがまだ出ていない子に、
    とにかくことばの力を育てたいということでカンカンになるよりは、
      ことば以前の手持ちの力を使ってしっかりコミュニケーションしていく、
                    そのほうがはるかに自然です。
 
   ことばが生まれてくるとすれば、
    それはむしろ、そうして手持ちの力を使って十分にコミュニケーションをした結果なのです。
      
・・・・『親になるまでの時間 前・後編』(浜田寿美男)・・・・・
  

    浜田寿美男 はまだ・すみお
     1947年香川県小豆島生まれ。発達心理学・法心理学者。
     『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』編集協力人。
     発達心理学の批判的構築をめざす一方、冤罪事件での自白や目撃の心理に関心をよせ、
     それらの供述鑑定にもかかわる。
  
       『子どもが巣立つということ』(ジャパンマシニスト社)、『自白の心理学』(岩波書店)、
       『〈子どもという自然〉と出会う』(ミネルヴァ書房)など著書多数。